2016年01月28日

というのが話題


従来の成績による試験やスポーツ推薦ではなく、どんな分野に限らず、
何か一つ秀(ひい)でたものを持っている学生を積極的に取り込んで行こうという入試。
その入試で「けん玉日本一」の学生が話題を呼んだりもした。
今は、一芸入試という呼び方をする大学はないが、
AO入試などと呼称を変え、多角入学が行女士脫髮なわれている。
だけども、そんな入試形態を行なうことによって、吉凶の出方を変える場合がある。
たとえば、ある人気の芸能人が入ったが、出席すらも怠けがちで、
勉学にも熱心でなかったことから、いっぺんに評判を落とした大学もある。
逆に、芸能人が入ることによって人気を上げたとおぼしき大学もある。
その匙(さじ)加減の難しさがある。
AO 入試などの取り組みは、評価すべきと思う。
一芸に秀でることは、すべての「道」に通じるところがある。
ここで、歴史的な大御所を出すのは、烏滸(おこ)がましいが、
『能(猿楽)』の大成者・世阿弥は、
一芸に秀でたことにより、すべてに通じた人物とも言うことができるだろう。
五十近い謡曲などの作品を残し、ほとんどが現在も上演されている。
それに加え、父の遺訓や自らの芸術論などの、
いわゆる『世阿弥十六部集』として知られる「伝書」などを残している。
それを見ると、芸術論というより、人生訓のような感じがする。
こんな人物ならば、一芸入試も納得と言ったところだろう。
彼の著した『花鏡』は、彼が、老年になった時に記したもの。
その中の中藥脫髮一節に、
『惣じて、目ききばかりにて、能を知らぬ人もあり』という一文がある。
これをわかりやすく表現すると、
「能をあれやこれやと自分の眼が正しいと言わんばかりに
評論する人もいるが、そんな人も実際のところ能を知っていないものだ」
という言葉を残している。
手厳しいが、結構言い得ている。
この言葉、何にでも通じるところがある。
能にしろ、スポーツにしろ、
楽しめばいいものを、評論に明け暮れている人が居たりする。
今から、WC 予選のサッカーの試合が始まる。
世阿弥にあやかり、何やかや評論せず、大いに楽しむとしよう。  


Posted by 手を握る  at 10:40Comments(0)